朝日町の歴史・文化と郷土の偉人
朝日町での人々の暮らしは少なくとも弥生時代まで遡ることができます。これを裏付けるように竪穴住居のほか、弥生時代後期の水田の跡も見つかっています。
その後の古墳時代を経て大化の改新以降、古代国家の体制が整備されていきました。現在の朝日町は伊勢国朝明郡に属していました。この朝明郡の記述は『日本書紀』に見られ、672年に大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子が政権を争った壬申の乱の際に朝明郡を通りかかり、迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神を望拝したと記されています。そして、この壬申の乱との関係が指摘されているのが縄生廃寺です。
奈良時代から平安時代にかけてこの地域では、伊勢神宮が多くの御厨をもっていました。朝明郡は、寛仁元年(1017)に伊勢神宮に寄進されています。中世の伊勢神宮の領地を書き上げた『神鳳抄』には、金綱御厨、小向御厨、柿御厨、宇頭尾御厨といった御厨が見られます。
昭和61年度の発掘調査で、塔跡が発見されました。出土した軒丸瓦から、創建されたのは7世紀末頃(飛鳥時代)と考えられます。この発掘調査では、「舎利容器」が発見され、全国的に注目されました。
発見された舎利容器は、塔基壇の中央、地下1.5mに据えられた塔心礎の舎利孔に安置されていました。これまでに、発掘調査で当初のまま舎利容器が発見された例は唯一で、貴重な資料として平成元年6月12日に国の重要文化財に指定されました。
室町時代になると、幕府が北伊勢に配置した奉公衆(将軍に近侍した御家人)により支配されるようになります。朝明郡の奉公衆には、柿の佐脇氏、埋縄の疋田氏などの名が見られます。この頃の豪族たちは、丘陵を利用して城を構えました。しかし、戦国時代になると領主の多くは姿を消していきます。柿城の佐脇氏は、近江の佐々木氏により、また縄生城・小向城・埋縄城は、永禄10年(1567)の織田信長の北勢侵攻の際、家臣の滝川一益によって攻められました。
関ヶ原の戦いを経て、桑名に徳川家康の家臣本多忠勝が入ると、桑名城下の整備が始められました。このとき縄生村・小向村・柿村・埋縄村は、桑名藩に属していました。町内には桑名藩主松平家とつながりがある寺院が所在し、縄生の真光寺には松平家の梅鉢の紋が入った大手水鉢が、小向の浄泉坊では山門の扉や屋根瓦に徳川家の三葉葵の紋が見られます。
この頃になると、町内を縦断する東海道は、五街道の中でも特に重要な交通路として整備が進められました。多くの人々が各地を往来するようになり、旅人のために各地の名所を紹介するものが次々に刊行されるようになりました。その一つ『東海道名所図絵』には、東富田(現四日市市)や小向において名物の焼蛤が売られていたことが記されています。
明治21年、市制・町村制が公布され縄生・小向・柿・埋縄の4つの村が合併し朝日村となりました。村の名称は、当初「山添村」としていましたが、壬申の乱の際大海人皇子がこの地域で朝日を拝んだという故事にちなんで「朝日」という村名に決まりました。これが朝日町の名の由来となっています。
明治27年には関西鉄道桑名-四日市間が開通し、昭和4年に伊勢電鉄(現在の近畿日本鉄道)、昭和7年には国道1号線が開通します。その後昭和13年には芝浦製作所(現在の東芝三重工場)が誘致され、工業が発展していきます。
戦後、昭和29年に町制を施行し、朝日町が誕生しました。当時の人口は5,012人、世帯数は1004世帯でした。昭和58年に国鉄関西本線(現在のJR)朝日駅が設置され、平成15年には伊勢湾岸自動車道みえ朝日インターが開設されるなど、交通の利便性は更に向上しました。また、町の丘陵部では住宅開発が進行し、平成17年以降「白梅西」「向陽台」「白梅東」の3自治区が誕生しています。この頃から町の人口は急速に増加し、平成25年4月8日に人口10,000人を初めて突破しました。翌平成26年には、朝日小学校の児童数も1,000人を突破しています。
朝日町は、古くから培われた歴史・文化の薫るまちに加え、今も新しい歴史を刻み続けています。
橘 守部(たちばな もりべ)
天明元年(1781)~嘉永2年(1849)
江戸時代後期の国学者橘守部は、天明元年、小向村に生まれました。父は、飯田長十郎元親といい、津の国学者谷川士清の門人であったとも言われています。守部は、香川景樹・平田篤胤・伴信友らとともに20歳をこえてから学問に志すという晩学ではありましたが、29歳の時、武州幸手(現在の埼玉県幸手市)に居を構え、49歳で江戸に出るまで勉学にいそしみました。国学者として真価を発揮するのは、60歳をこえてからで、代表的な著書『稜威道別(いつのちわき)』『稜威言別(いつのことわき)』を著したのは晩年のことでした。天保の国学四大家のひとりに数えられています。
森 有節(もり ゆうせつ)
文化5年(1808)~明治15年(1882)
森有節(初代)は、文化5年桑名の田町に生まれました。本名与五左衛門、摘山堂と号し、桑名の豪商沼波弄山(1718~1777)が創始した萬古焼(古萬古)が絶えて久しいのを惜しみ、天保3年、有節25歳の時小向の名谷山に弟千秋とともに窯を開きました。そのため「再興萬古」とも呼ばれています。明治15年4月25日、75歳で小向の地にて没しました。
栗田 真秀(くりた まひで)
明治4年(1871)~昭和17年(1942)
真秀は明治4年4月7日、縄生に生まれました。幼児より絵に親しみ、土佐派の絵師であった桑名の帆山唯念(画号花乃舎)に入門、その没後に名古屋の木村金秋に師事し、のちに京都で活躍した日本画家です。昭和17年4月6日、71歳で没しました。
水谷 立仙(みずたに りっせん)
明治15年(1882)~昭和45年(1970)
立仙は明治15年9月9日、小向に生まれました。萬古焼の下絵書き職人から後に京都の竹内栖鳳の門人となった日本画家です。花鳥・山水を得意とし、初め本名の「立仙」と署名、のちに栖鳳から「尚仙」の画号を受けました。昭和45年9月29日、88歳で没しました。
中村 古松(なかむら こしょう)
明治34年(1901)~昭和54年(1979)
中村古松は本名、喜三郎。明治34年縄生に生まれました。高橋其光(『紅一点』主宰)、川口仙秋(『松の華』主宰)に俳句を学びました。町屋川をこよなく愛した俳人で、「不老会」を主宰し、俳誌『松の栞』を大正10年(1921)から亡くなるまで約60年間、独力で刊行しました。『松の栞』は、全国でも珍しい無所属・無派閥の俳誌で、俳系にとらわれず、いろいろな系統の俳人が選者となり、その交流は全国に及んでいます。昭和54年、78歳で没しました。
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